矢內原校長之耶穌傳-動容篇章選 -伯大尼的瑪麗亞
所有的事都有適合的時間,所有的行為在適當的時候才美麗。
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優美,是這則故事給我的感受。也是世俗與核心精神的對比。
小介
這個故事與第十三章《最後的預言》緊密相連。前文描繪了耶穌憂愁與悲傷的心境,而在第十四章的開端,瑪麗亞察覺到一股異常的悲傷籠罩著耶穌,彷彿死亡的陰影壓在他的心頭。面對這樣的情境,瑪麗亞做出了特別的行動來回應。
由於自身能力有限,與其勉強寫下生硬的解釋,不如直接欣賞這段文字所帶來的深刻感受。
翻譯的文章如下:
第十四章 葬禮準備
二 伯大尼的瑪麗亞
耶穌則返回了寧靜的伯大尼村,坐在西門的家中共進晚餐。這位西門原本患有嚴重的皮膚病,卻因耶穌的治癒而得到康復,從那時起成為了他的門徒。
對耶穌來說,伯大尼是一個綠洲。即使在激烈的戰鬥日子裡,回到這裡,他的心靈可以得到安寧,身體也可以得到休息。然而今天,他的心沉重如同鉛,額上籠罩著悲傷的雲層,他疲憊不堪地坐在席上。看到他這樣的情形,瑪麗亞感覺到不尋常的悲傷籠罩著耶穌,彷彿是死亡的苦痛壓在他的心頭,這是年輕女性愛的直覺使她感知到的。她心中充滿了憐憫,想要用任何方式來安慰他,這使她的心顫抖不安。
她心中突然湧現一個幸福的念頭。她毫不猶豫地站起來,從自己的家裡取來一個裝有香膏的石膏壺。這可能是她留存為結婚之日所準備的,裡面裝的是珍貴純正的納爾多香膏(納爾多可能是產地的名稱)。她焦急地打開壺蓋,然後將壺打破,急速地將香膏倒在耶穌的頸部。如果可能的話,她願意打破自己心靈的膜,將她內在的血液和愛都傾注出來!
瑪麗亞將耶穌的頭靠在自己的胸前,專心地倒出香膏並擦拭。她還輕輕地握住耶穌疲憊的腳,塗抹香膏,並用自己的頭髮擦去滴落的香膏(約翰福音12章3節)。耶穌沒有拒絕她,順從地讓瑪麗亞撫摸他的頭和腳。瑪麗亞無言,耶穌也無聲,納爾多香膏流淌在耶穌的鬍鬚上,甚至滴到了他的衣裳下,香氣彌漫了整個房間。
然而,突然有些弟子的言語打破了這一片刻的恍惚。他們非常憤怒地說:
「為何如此浪費這些香油?這些香油可以賣三百多個銀幣,然後施捨給貧窮的人。」(馬可福音14:4–5)
當耶穌要求給五千人吃飯時,門徒回答說:「我們去買價值二百個銀幣的麵包嗎?」(馬可福音6:37)。這三百個銀幣相當於六七千人吃飯的費用,這是一筆巨款。門徒們認為:「這真是太浪費了,如果把這些香油賣掉,我們可以做一個大型慈善事業!」他們因此責備那個女人,並隱含地批評了耶穌。
然而,耶穌平靜地回答道:
「由她去吧,為何難為她?她在我身上做了件美事。你們常有窮人和你們同在,隨時可以向他們行善,但你們不常有我。她已經盡她所能地把香油澆在我身上,這是為我安葬做準備。我實在告訴你們,無論福音傳到全世界任何地方,都要述說這女人所做的,作為紀念。」(馬可福音14:6–9)
耶穌非常稱讚這個女人(「美事」指的是美麗的行為,「盡她所能」這句話非常強烈。在人死後,安葬前給屍體塗油是一種對死者的禮儀)。
所有的事都有適合的時間,所有的行為在適當的時候才美麗。如果在有貧窮的人面前說:「不,這筆錢必須留著為耶穌塗油」,而閉上施捨的心,耶穌一定會生氣。他曾教導說,不餵飢餓的人,不給口渴的人喝水的人,將受到詛咒,進入永遠的刑罰(馬太福音25:41–46)。他也曾嚴厲責備那些法利賽學者的偽善,他們說:「我的財物已經奉獻給神了」,就不必給父母(馬可福音7:9–13)。但此時並沒有飢餓的貧窮人,也不是侍奉父母的時候。此時此刻,正遭受痛苦的是耶穌自己。十字架的死亡預感籠罩著他,他的心靈陷入孤獨的深淵,渴望著透徹心靈的同情。而這種渴望正是瑪麗亞用一瓶香油滿足的。
瑪麗亞並非清晰地預知耶穌的死,但她直覺到耶穌心中充滿了死亡般的悲哀。門徒們即使在這緊迫的時刻,仍然只看到了耶穌的生命和工作,他們的思想集中在工作上。他們只想到讓耶穌工作。而瑪麗亞在死亡和悲哀中看到了耶穌,並希望緩解他的孤獨。在這種情況下,瑪麗亞的直覺比門徒們的思想更能了解耶穌的心。耶穌已經看到了死亡的臨近。對即將死去的人來說,談論事業和金錢是不合適的。對於即將死去的人,所需要的只有葬禮的準備。把香油倒在他為生涯中的戰鬥和勞苦所受的傷口上,讓他感到安慰、平靜和香氣撲鼻。瑪麗亞的行為正是當時所需要的美麗行為,是一個及時的命中。
愛是直覺。愛不會進行比較和權衡。考慮這些香油應該用來施捨給貧窮人還是倒在耶穌身上,這種比較並不是純粹的愛。愛在特定的時間內會毫不猶豫地傾注在一個對象上。心分開的愛不是愛。愛是全部的。只把一部分香油倒在耶穌身上,剩下的留給貧窮人,這樣的計算不是完整的愛。「盡她所能」才是真正的愛。
愛的對象是人格,而最深的人格是耶穌,因此,最深的愛也針對耶穌。「這些最小的弟兄中一個」餵養和給水,之所以有進入永生的價值,是因為「這是為耶穌做的」。同樣,沒有對「這些最小的弟兄」做的事,將被認定為「沒有為耶穌做」。貧窮人本身並沒有絕對的價值,對貧窮人的施捨本身也不是絕對有價值的善行。絕對有價值的人格是耶穌,對耶穌的愛才是絕對有價值的愛。對其他人格的愛只有在與耶穌聯繫起來時,才有絕對價值。瑪麗亞的行為是對耶穌直接的愛,因此具有絕對價值。
愛必須針對人格最深的需求。而人的最深需求比生命更體現在死亡中。當然,在生命中也有愛的需求和表現。但當人活著並工作時,即使沒有受到他人的安慰,也能憑自己的力量站立。而且,對活著的人表現愛,還有可能得到愛的回報。然而,對於死亡中的需求是絕對的,對將死之人的愛是純粹的,無需期望回報的行為。在耶穌的生涯中,最需要愛的是「死」的時刻。而且,耶穌的死是「作為眾人的贖罪」(馬可福音10:45),是他事業和生涯的完成。對於耶穌來說,死亡不是生命的終結,反而是生命的目的。生命是死亡的準備,死亡是生命的完成。他的福音實際上是他的死亡的福音。瑪麗亞在耶穌最需要愛的時刻,傾注了最大的愛,無意中也幫助了耶穌完成他的最大使命。
「我實在告訴你們,無論福音傳到全世界任何地方,都要述說這女人所做的,作為紀念。」
這也難怪耶穌如此高度讚賞這位女人。耶穌看到了單純信任的幼兒心中的信仰,也看到了女性心中純粹的愛。
啊,伯大尼的瑪麗亞!
永恆的拿達香氣,
女性中的女性。
祝福這位女性!
以純粹的直覺,
了解人子的孤獨,
盡她所能,
幫助了他的死,
不朽的愛。
然而使你的名字與福音一起
永恆不朽的他的愛
更是超越了你的愛。
(《馬可福音》和《馬太福音》僅提到「一個女人」倒了香油,但根據《約翰福音》(12:3),這女人是馬大和拉撒路的姐妹瑪麗亞。另外,《馬可福音》和《馬太福音》記載此事發生在逾越節前兩天,而《約翰福音》記載為六天前,這可能是記憶的差異,但事件應該是同一個。此外,《馬可福音》和《馬太福音》說她倒在耶穌的頭上,而《約翰福音》說她倒在耶穌的腳上,這不是主要問題。《路加福音》7:36以後也有類似的事件,但應該是另一個不同的事件。)
參考:
原文:
第十四章 葬の備え
二 ベタニヤのマリヤ
一方イエス様はベタニヤの閑静な村に帰られて、シモンの家で食事の席につかれた。このシモンはもと重い皮膚病であったのがイエスによって癒いやされ、それ以来弟子となった人でありましょう。
ベタニヤはイエスにとってオアシスでした。いかに烈しき戦いの日でも、ここに帰って来れば御心はくつろぎ、おからだの休養もできたのです。しかるに今日は御心重きこと鉛のごとく、とうとき額には哀かなしみの雲深くただよい、いかにも疲れつくして席に着き給いました。その御様子をみてマリヤは、何かは知らず尋常事ただごとでなき悲哀がイエスの身をつつみ、死の悩みとも言うべきイエスの心を圧おさえていることをば、若き女性の愛の直感をもって感じた。ああおいたわしい、何とでもして慰めてさしあげたい、と彼女の心はつぶされそうでありました。
その時一つの幸せな考えハッピー・アイデアが彼女の心に浮かんだ。彼女はつと立ち上がり、一瞬の躊躇ちゅうちょもなく自分の家から香油の入った石膏の壷を持ってきました。己が嫁ぎの日のために貯えていたものであろうか、価高き純粋なナルドの香油でありました(ナルドというおそらく産地の地名であろう)。蓋をあけるももどかしく、彼女はその壷をこわして、さっと香油をイエス様の首にそそいだのです。できることなら己が心の膜をも打ち破って、中なる血潮も愛もみんなそそぎかけてしまいたい!
マリヤは、イエス様の首をおのが胸に押しあてんばかりにして、香油をそそいではなでつける。またお疲れになった御足をいだいて香油を塗り、その流れしたたるをば己が頭髪をもてぬぐいます(ヨハネ一二の三)。イエスはこれを拒み給わないで、首と足とをマリヤの愛撫に任せている。マリヤ物言わず、イエスも無言、ナルドの香油はイエスの髯ひげに流れ、衣の裾にまでしたたり、芳香馥郁ふくいくとして室へやに満ちました。
しかるにたちまちこの恍惚こうこつを破ったものがあります。それは弟子のある者たちがひどく憤慨して、
何ゆえかくみだりに油を費やすか、この油を三百デナリ余に売りて、貧しき者に施すことを得たりしものを。(一四の四、五)
と、ブツブツ言い出したのです。前に五千人にパンを与えよといわれた時、「我ら往きて二百デナリのパンを買い云々」と弟子たちの答えたのを見れば(六の三七)、三百デナリは六、七千人分の食事代に相当する大金であった。「もったいないことをするものだ。この油を金に替えれば、大慈善事業ができるのに!」こう言って、ひどく女を咎とがめたのです。これは先生も先生だという、暗にイエス様に対する批難を含んだ気持でありました。
しかるにイエスは静かに答え給うて、
そのなすに任せよ、何ぞこの女を悩ますか、我に善きことをなせり。貧しき者は常に汝らと偕ともにおれば、いつにても心のままに助けうべし、されど我は常に汝らと偕におらず。この女は、なしうる限りをなして、わが体に香油をそそぎ、あらかじめ葬りの備えをなせり。まことに汝らに告ぐ、全世界、どこにても福音の宣べ伝えらるる所には、この女のなししことも記念として語らるべし。(一四の六―九)
と、たいへんこの女をおほめになった。(「善き事」とあるのは美しき行為という意味です。「なしうる限りをなして」とは、非常に強い言葉です。また人が死ぬれば、葬る前に死体に油を塗るのが、死者に対する心づくしの礼儀でありました)
すべてのことに時があります。すべての行為は時にかなって美しいのです。もしも貧しき者を目の前に置きながら、「いや、この金はイエスのからだに油ぬるために取っておかねばならぬ」と言って施しの心を閉ずれば、イエスはこれを怒り給うにきまってる。いと小さき者の一人の飢えしときに食わせず、渇きしときに飲ませざる者は、詛のろわれて永久の刑罰に入るべきものだ、とかつて教え給うたでないか(マタイ二五の四一―四六)。また「わが汝に負うところのものはコルバン(供物)なり」と言えば父母に物を与えなくてもよい、と論ずるパリサイの学者の偽善を烈しく責め給うたこともある(七の九―一三)。しかし今は貧しき者が目の前で飢えているのでもなく、父母に事つかえる場合でもない。今目の前で悩んでいるのは、イエス御自身なのだ。十字架の死の予感が彼をとらえ、その御心は孤独の深淵に沈み、たましいの底にまで透徹する同情に飢え渇いておられるのだ。しかしこの渇きをいやし奉ったものは、まさしくマリヤのそそいだ一壷の香油であったのです。
マリヤはイエスの死を明確に予知したのではありますまい。しかし死のような悲哀が、イエスの御心に湛えられていることを直感したのです。弟子たちはこの切迫した場合に立ち至っても、なお生において、活動において、イエスを見た。仕事! 仕事! というのが彼らの思いでありました。彼らは先生に働いていただくこと、先生を働かせることだけを考えた。しかしマリヤは死において、悲哀においてイエスを見、その孤独を和やわらげてさしあげたいと思ったのです。そしてこの場合弟子たちの思考よりもマリヤの直感が、イエスの御心を知ったのです。イエスは死を目睫もくしょうの間に見ていられる。死の間近い人を前にして、事業の相談、金の勘定でもあるまい。死ぬる人にいるものは葬りの備えだけです。その生涯における戦いと労苦とにより傷つき疲れたるからだに香油をそそぎて、戦塵せんじんを洗い、筋骨を和らげ、美しく、香り高く、和なごやかに憩わせることです。マリヤのなした行為は、まさにその時の必要を満たした美しい行為であって、いわゆるタイムリー・ヒットでありました。
愛は直感です。愛は比較較量こうりょうしません。この香油を貧しき者に施そうかイエスの首にそそごうか、いずれがより善きことであろうか、と比較して考えた行為は純粋の愛とはいえない。愛は一つの時には一つの対象に向って、躊躇逡巡しゅんじゅんなく傾けつくされる。心が分かれるのは愛でありません。愛は全部的です。香油の一部だけをイエスの首にそそぎ、あとは貧しき者のために残しておくというような、分割的な計算的な行為は全き愛とはいえない。「なしうる限りをなした」ものだけが、完まったき愛です。
愛の対象は人格です。そして最も深き人格はイエスであるから、最も深き愛もイエスを対象とします。「これらのいと小さき者の一人」に食わせ、飲ませたことが、何ゆえに永久の生命に入るだけの価値があるかといえば、それは「イエスになした」ことだからであり、「これらのいと小さき者」の一人になさざりしことは、なぜ永久の火に値するかといえば、それがイエスになさざりしこととして認定せられるからです。貧しき者そのものに絶対の価値があるのではなく、また貧しき者に対する施しそのものが絶対的価値ある善事ではない。絶対価値ある人格はイエスのみであり、したがって絶対価値のある愛はイエスを愛する愛のみです。その他の人格に対する愛は、イエスに結びつけられてのみ、イエスに対する愛に換価せられてのみ、始めて絶対的価値にあずかるのです。マリヤの行為はイエス御自身に対する直接の愛であったから、それは絶対的価値のある美しき行為であったのです。
愛は人格の最も深き要求に向かってそそがれなければならない。しかるに人の最も深き要求は、生においてよりもむしろ死において現われる。もちろん生においても愛の必要もしくは発現はある。しかし生きて働いている間は、たとい他人の慰めを受くることがなくても、自己の力をもって立ちうる余裕が全然ないわけでない。また一方においては、生者に対する愛は愛をもって酬いられる余地がある。しかるに死においては愛の必要は絶対的であり、また死なんとする者に対する愛は何らの報酬を期待せざる純粋なる行為として発現しうる。イエスの御生涯においても、最も愛を要求せられたのは「死」においてでありましょう。しかもイエスの死は「多くの人の贖償あがないとして己が生命を与える」ものであって(一〇の四五)、彼の事業と生涯との完成でありました。イエスにおいては死は生の終焉しゅうえんではなく、かえって生の目的であった。生は死の準備であり、死は生の完成であった。彼の福音は実に彼の死の福音であったのです。マリヤはイエスの最も愛を必要とせられた時において最大の愛を傾けたのみでなく、はからずもイエスの生涯の最大使命の達成に対して、心からなる協力をたてまつったのであります。
まことに汝らに告ぐ、全世界、いずこにても、福音の宣べ伝えらるる所には、この女のなししことも記念として語らるべし。
と、口をきわめてこの女をおほめになったことも無理ありません。単純に信頼する幼児の心に信仰の姿を見給うたイエス様は、混じりなく直観する女性の心に愛を見られたのであります。
ああベタニヤのマリヤ!
永遠のナルドの香り、
女性の中の女性よ。
祝福女性にあれ!
混じりなき直観もて
人の子の孤独を知り、
なしうる限りをなして、
彼の死を助けし
不朽の愛よ。
されど汝の名を福音とともに
不朽ならしめし彼の愛は
汝の愛よりもさらに大であった。
(この香油をそそいだ女は、マルコ伝およびマタイ伝(二六の六)には「ある女」とあるだけだが、ヨハネ伝(一二の三)によりてマルタ、ラザロの姉妹たるマリヤであることがわかる。なおマルコおよびマタイには過越の祭りの二日前とあり、ヨハネには六日前とあるが、これはいずれかの記憶違いで、事件は同じ場合であったと思われる。またマルコおよびマタイにはイエスの首に油をそそいだとあり、ヨハネには足とあるが、これも大した問題ではない。なおルカ七の三六以下にも類似の事件の記事があるが、これは別の場合にあったことであろう)